長岡市悠久山 桜植樹プロジェクト 「お山の千本桜」

ロータリー財団地区補助金事業(DG1737876-5)
『長岡市悠久山 桜植樹プロジェクト「お山の千本桜」』

2016年10月20日(木)に、新潟県長岡市にある悠久山(ゆうきゅうざん)公園において、ロータリー財団の地区補助金を活用した、『長岡市悠久山 桜植樹プロジェクト「お山の千本桜」』を実施しました。

植樹をおこなった場所は、悠久山公園広場でイベントをおこなうステージの左右であり、公園広場のなかで桜の木が欠けていたポイントでした。この場所に植樹されたことによって、公園広場を囲う桜の木々の輪は完成されました。『長岡開府400年』の歴史的節目を迎える平成30年(2018年)において、立派な若木に育った桜を長岡市に寄贈しました。

「お山の千本桜」の記事 (2016年10月25日 新潟日報 朝刊)

「お山の千本桜」の記事(2016年11月1日 長岡新聞)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お山の千本桜」と長岡甚句に歌われ、市民に広く親しまれている悠久山の桜は、江戸時代の譜代大名、越後長岡藩にあって、大阪城代や京都所司代といった要職を歴任し、老中在職中には「寛政の遺老」といわれた名君、第九代藩主の牧野忠精 (まきの ただきよ)公により植栽されたものです。

江戸時代末期の北越戊辰戦争では長岡城と城下町が灰燼と化してしまいましたが、越後長岡藩は今日でも有名な「米百俵の精神」を世に残しました。その「米百俵の精神」に育まれた長岡の人々は、明治時代には石油業を手始めに一般機械及び工作機械を中心とする産業を発展させ、また、それらを牽引した実業家らが、元和4年(1616年)の長岡開府から300年となる節目にあわせるように、大正5年(1916年)に「令終会」(れいしゅうかい)を結成しました。「令終」とは「人生の終わりを全うする」という意味であり、「我々はやがて死を迎えるであろうが、生まれ育った長岡の次なる世代のために、何か役立つものを残そうではないか」と、彼らが考え計画し建設され、長岡市に寄贈されたものが、現在の悠久山公園となりました。

長岡市は、第二次世界大戦末期の昭和20年(1945年)の長岡空襲によって、多くの尊い人命とともに、またもや市街地の多くが焼失してしまいましたが、長岡市民は再び立ち上がりました。その翌年に開催した戦災復興祭が、現在の「長岡まつり」となりました。また、昭和52年(1977年)には、不撓不屈の精神を不死鳥(フェニックス)に託した市章ができました。

二度の戦災を受けた長岡市は、平成16年(2004年)の新潟県中越地震(中越大震災)でも大きな被害を受けました。そのような中でも不撓不屈の精神を持つ長岡市民は、三度立ち上がり、「復興祈願花火フェニックス」を打上げ、全国からの支援に感謝するとともに、今後の復興を誓いました。

「米百俵の精神」を辿ることのできる『お山の千本桜』、「令終会」が次世代に向けて語り続ける『悠久山公園』、中越大震災からの復興そして世界の平和を祈願する『フェニックス』。これらは、長岡地域の個性とアイデンティティーを表す『地域の宝』になっています。

参加人数は、当クラブの会員(ロータリアン)が29人、他のクラブの会員(ロータリアン)が1人、一般参加者が15人、来賓5人の計50人でした。

記念式典の一環でおこなった最初の植樹の様子。 スコップをお持ちの方は、左から、「越後長岡藩 牧野家 第17代当主 牧野 忠昌 様」、「長岡市役所 都市整備部長」、「長岡西ロータリークラブ 須田 茂 会長」。後方は、「浦上 義昭 実行委員長」。

最初の植樹を中心に、集合写真を撮影しました。その後、他の7本の植樹をおこない、併せて、清掃活動をおこないました。

事業を記念した石柱を設置しました。ロータリーマークは、「七宝カーバッジ」です。石柱に軸穴を開け、接着してあります。

石柱の裏面。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

事業後は、近隣の会場において移動例会を開催しました。その中では、越後長岡藩 牧野家 第17代ご当主 牧野 忠昌 様ならびに令夫人への感謝を表しました。牧野様からは、悠久山公園に関係したお話しをいただくとともに、今後についてのご意見をいただきました。その後、実行委員会メンバーの慰労とともに、達成感のなかでの食事会となりました。